そこにあるもの






そらを、見上げるんだ。








耳の奥で風が速く過ぎる音がする。
自分にはまだない大きな背中に体を預けて、ホークザイルの上、テイトは進行方向とは逆の空を仰ぎ見た。


(月…あんなに近くに見える)


冷えた空気に空が澄んで、月や星が今までの季節以上に鮮明に見える。
少し膨らんだ三日月は白金に輝いて大地を照らして、その眩しさに思わず翡翠の瞳を細める程だ。
おそらくは士官学校の時の方が空に近かったから今よりも月に近かった場所にいた筈なのに、あの時よりも今の方が月が鮮明に見えるのは何故だろうと、不思議に思いテイトは静かに左手を伸ばす。

伸ばしても届かないなんて判っていても真っ直ぐに伸ばした手は、テイトの腕の長さ分までの距離しか月との間を狭められなかったが、掌は綺麗にテイトの視界から月を隠した。


(このまま、掴めたりしないのかな)


馬鹿な事を考えているのは判ってる。それでも出来ないことをしたくなってしまうのは、はるか昔月には死者が住んでいると聞いたことがあるからかもしれない。

月を掴むように指を閉じて、拳になった左手を引き寄せて開いてみても月の残滓はそこには何一つない。あの時、カペラを掴む手はあったはずなのにと思うと自然と眉が寄る。


本当に住んでいるのなら、掴んで引き寄せて、そして今度はずっと抱きしめて、絶対に離さないように取られないようにするのに。
窮屈だって、そう言われても構わない。

下を向いたままじっと掌を見つめていると、頭の上から声が聞こえた。


『こら、テイト・クライン。何寂しそうなカオしてんだよ。』


(…月が…つかめないんだ)



苦しいものを吐き出すように言うと、傍に居る誰かが首を傾げて隣に座った、気がした。
きっと何言ってんだと返されるんだろうと思い、胸元で開いたままの左手を見ながら自嘲する。
あんなに遠い月に届くわけないだろって苦笑いを浮かべるだろう。わかっているんだそのくらいの事は。
意味がない、なんて事は。それでもそうしたい時があるんだと、胸元にあるその手をまた伸ばして、もう一度月を掴む動作をしてみる。


例え開いた先に何もなくても、それでも―、


拳を胸元に引き寄せようとしたとき、不意にそれを留める手が顕れた。空気みたいに薄い、でも宝石みたいにはっきりとした手。


『なあ、テイト。』


触れる温度も感触もないのに、その手は確かにテイトの手を押し留めてそこにあった。見覚えのあるその手は視界の中で強くテイトの手を握ると、苦笑いしている時と同じ声で囁く。


『無理に遠くのものを掴まなくてもさ、ちゃんと、ここにあるだろ?』

(…何が?)


本当に判らずに聞いて見ると、その声は快活に応えた。


『そりゃ勿論、あの時オレに教えてくれたお前の大切なものだよ』


(大切な、もの)


心の中で呟くと、そうだぞ、と嬉しそうに、自分以外にもテイトにとって大切なもの出来て嬉しい、という声が聞こえてきた。


『オレはもう、人としてお前の傍にはいれないから…お前が大切にしてるものが出来て、大切な人が増えてすっごく嬉しいんだ。』


テイトの伸ばした左手が歪んだ。霞む視界を振り払うように一度強く目を瞑ってもう一度目を開けると、なんの感触もくれない手が握りこんだ拳を撫でて、以前同じように拳を撫でてもらった時の暖かさが甦る。
魂は近くにあるけど、もうあの温かさを隣の彼は渡せないから、テイトがそれを求めたときに与えようとしてくれ、なおかつテイトがそれを素直に受け取れる相手が出来て彼は喜んでくれているのだ。


『だからさ、その大切なひとの為にもあんまり無理はすんなよ。それに無理ばっかしてると体が硬くなって、身長が伸びなくなるぜ?』


冗談まじりに自分の事を気遣う声が懐かしくて、テイトは顔を綻ばせた。何度も聞いた身長が伸びなくなるという話。最初の頃はどんなに嘘みたいな話でも信じてしまっていたことが脳内の記憶から引っ張り出されて、少し仕返ししてみたくなる。


(お前こそ、あんまり俺の心配ばっかしてると人の時みたいに彼女できなくなっちまうぞ)

『うーん…それは由々しき問題だな。まー群れから離れた時点でもう無理かなとは思ってるけど』


出来れば欲しいよな、と笑う声につられて、テイトも小さく笑った。上げていた手は胸元に引き寄せずにそのまま下ろすと、同じように半透明の手も視界から消える。


(…ミカゲ?)

『…ん?』


ミカゲという名前に反応した声は自分の左側から聞こえる。そっちを見たらきっとあの笑顔が見れるんだろうと思った。見たいと思った。
でも、自分の気持ちに嘘をつかないと決めた以上、今はその笑顔に真っ直ぐ笑って返すことが出来ないから、テイトは空の月を見上げたまま思った。


(ありがとう)


うん、と返ってくる声がなんだか小さく感じた。不思議に思った瞬間に、急に風の音が強くなって、彼の茶化す声が遠くに聞こえた。



『ところでさ、そろそろ起きないと寒さで風邪引いちまうぞー?』









「…っ痛ェー!」
「瞬間で寝んなクソガキ。走ってるとこ確認したいから地図貸せっつったのお前だろ。」

呆れた声で丸められた地図を肩口から差し出すフラウから受け取る。
だからって叩くことはないだろうと言おうとして、テイトは自分が会話の隙間に寝ていたと言われた事に思い至る。

「…寝てたのか?俺?」
「おうよ。」

ほんの五秒程度だろうがな、そう言うフラウに礼を言って、テイトは自分の右側を確認する。
自分が寝てしまった所為でカペラの寝心地が悪くなってしまっていないか確認し、寝息の穏やかさに安堵の息を漏らして―…ふと、気づく。


眠ったほんの一瞬、なんだか夢を見ていた気がする。とても幸せな夢を。














『…このことは、思い出さなくて、いいんだ。』

ひとりになった世界で、ミカゲはぽつりと呟く。
刹那の夢は、カンタンに忘れてしまうものだから、きっとどんなに大事なことでも思い出さなくていい。


それでもと思ったら、そらをみあげるんだ。
そうしたらオレはまた刹那の夢として、お前の暗闇を取り除いてやる。


少し太った三日月。手をかざすと手の真ん中で光り輝いているのが透けてみえる。


『でも…忘れんなよ、テイト。無理に掴まなくても、ちゃんとそこにあるんだからな。』

必死にならなくても、傍にいるから。
何があっても、絶対に。