メランコリィ




 腕の中から抜け出す感覚に意識が覚醒する。人一人の体分浮いていた腕は自らの重みで落ちる訳ではなく、温かい手の支えによってゆっくりと布団の中に戻された。ついでのように撫でられた前髪。そこまでを感覚で追いかけて、薄く瞼を開ける。
 昨日の名残を少しだけ残した、乱れた髪をそのままに、寝起きの少し覇気の足りない瞳がとろりと解けた。
「おはようランラン。今から朝ごはん作るから、もう少し寝ておきなよ」
 そう言って、鼻先に軽く口づけてから離れて行く背中を、まだ回り始めていない思考はぼんやりと追いかける。
 昨夜は気絶するように眠りに落ちていたのに、ベッドから見えた時計の針は早朝の域を出ない。もしかしたら無理をしているのかもしれないが、足取り軽やかにリビングへ向かう姿を見る限り無理をしているようにも見えなかった。
 今日の仕事は蘭丸には珍しく昼の収録が一本だけしかない。仕事を詰めすぎて事務所から無理矢理調整されたのが原因で、この一週間ほどは日付が変わるまでには家に帰りついていた。
 嶺二も調整中だったのか、この一週間はほとんどこの嶺二の家に帰って夕飯と朝食を食べている。何故か当然のように今日も嶺二の家で夕飯を食べて、明日朝の挨拶をするのだろうと思っていた蘭丸の思惑は、朝食の席で見事裏切られた。
「ランラン、ぼく今日はレコーディングが入ってて、多分遅くまでかかるからご飯の用意できないや」
 ごめんねと、謝る必要もないはずの事を、何故か申し訳なさそうに言われて胸の辺りが痒くなる。
 告白らしい事も、蘭丸の方から正しく口にしたことはないが、自分達は恋人同士なのだ。おそらく。例えば雇い主と労働者の関係等ではなく。お互いに忙しい合間にできた、この一週間の骨休みを共に過ごせた事を喜ぶべきで、ずっと続くわけではないことくらい判っていた筈なのに、蘭丸も、おそらく嶺二も時間が取れなくなった事に落胆している。
「おれの事は気にすんな、全力でやってこい」
 落ち込んでいる事を悟られないよう、トマトスライスの上にチーズを乗せて焼かれたパンを口に入れて、不満と一緒に飲み込む。
 もっちろん!と応えるは蘭丸がそう言うのをわかっていたように、意図的な明るさが含まれていた。

 そうして、寝に帰るという意味では久しぶりの我が家で、夕飯をどうするか忘れていたのを思い出したのは以前から会えない日に嶺二が送ってくるメールによってだった。
 朝言った通りレコーディングが伸びていること、但し悪い意味ではなく今日は調子が良いので予定外だがもう一曲進めることになった事…朝の話題に続いて、明日の仕事が午後からで良かったというちょっとした雑談等。
 何だかんだと相手が読みやすいメールを送ってくるやつが、何時もより少し長いのは嶺二が興奮している証拠だ。よほどレコーディングが楽しいのだろう。
 完徹になるかもと最後に書かれているのを確認して、いつも通り保護を掛けると返信はせずに台所へ向かう。
 前に嶺二が来た時にあれやこれやと保存食になるものを買ってきていたはずだったが、何か残っていただろうか。
 冷蔵庫の中に関しては、1週間前に嶺二の家に居座ることになるだろうと分かった際に中身がほぼ無かったのを確認して以降、買い足し等をした覚えもない。おそらくと言った態で開けてみればそこは予想通り、以前貰ったチョコレート箱とビール缶以外は何もなく。ため息をついて冷蔵庫を閉める。
 乾物と缶用の引き出しを開けるとスパゲティとトマト缶、それにツナ缶を見つけたのでそれで何か作ろうと鍋を取り出して水を張る。一人で食べる時は大体いつも適当にあるものを使用するので、まれに使おうとした嶺二に怒られるが今回は予備もあったので問題ないだろう。いつの間にか嶺二に台所を占領されているのにそっと目をそらして、湧き出した水の中に塩を入れようとつまんだ。
 のだが。
「げ」
 何をどうしたのか、どれだけ意識を手元から離していたのか。一つまみほど入れようとした塩をほぼ一掴みしてしてしまい、しかもそれをほとんど入れてしまった。おそらく3つまみ、いや5つまみほどになるんだろうか。手を離した瞬間に戻ってきた意識が舌打ちをさせる。まだ気付くのが早くて助かったと思い、湯を半分ほど減らして再度蛇口を捻り、再度沸騰させる。
 これでなんとか大丈夫だろうかと思いパスタを茹でてみたが、結果は惨敗。パスタの固さを確認するために口に含んだ麺は、若干の塩辛さが染みついていて。代わりに味付け前だったソースの塩を減らしてはみたが、どうにも最初に麺だけを食べた味がのこってしまっていた。
 食べれない事はない、と諦めて。
 同じく補給されているであろうビールを冷蔵庫から取り出し、スパゲティーと共にテーブルへ。久々に食べた自分の味は、若干塩がきつい。いくら一人だからと言って気を抜き過ぎたかと再度深い息が漏れる。2人で食べる時には「美味しい」と笑って貰えるように全ての工程において気を配っているから、こんなことにはならないのだが。
 こんな時にあいつが居たら、このくらい笑って許せたのだろうと、暗澹たる気持ちが床に落ちていく。
 今日は失敗しちゃったけど、次は美味しくしようね!
 そんな風に言いながら、一緒にこれを食べてくれるのだと思うと無意識に本日二度目の舌打ちをして、思わず携帯に手を伸ばす。料理、失敗したとだけ書いて送信ボタン。ただの手紙マークだらけの中に、1つだけ返信のマークがついた。
 すぐに返事が来ることは無いだろうと、暫くは食べることに集中し。食べきって食器を洗った頃に携帯が震えた。
――珍しいね、どうしたの?――
 ほんの2行にも満たないようなメールは、先程の報告と感想と雑談を交えた時以外の連絡で最近よく見るようになった。飾り立てることをやめた嶺二の言葉は、相手が心配しているのをありありと見せてくる。
 相手に何も非はないのに当たってしまったことに今更気が付いて、渋い顔になっていくのを蘭丸は止められなかった。
『気にすんな。レコーディング全力でやらなかったら許さねえからな』
 こんな内容を送ることこそ心配させるかもしれない。だが気にするなとだけ言ったらあいつの事だ。余計に気にして仕事に身が入らなくなる事もあるかもしれない。
 もしくは、そうなってほしいのか。
 何にせよ注意喚起は必要だろうとそのまま送る。返信記号がまた一つ。
 すぐに返ってきたのは
『了解!いい音作ってくるよん』
 今のところ深く問いただす気はないようなので安心して風呂に入る。いい音を作ると言ったのだ。嶺二なら本当に作ってくるだろう。
 身についた憂鬱を排水溝に流すように、シャワーで体を洗って浴室を出る。何か飲もうとしてビール缶が先程飲んだ分で終わりだったのを思い出し、もう何度目か分からなくなっている憂鬱を吐き出す作業。それなら、と以前嶺二が置いて帰ったウイスキーを取り出し、氷を入れたカップに半分ほど入れる。一度よくかき混ぜてからミネラルウオーターを注いで、再度混ぜる。出来上がった水割りと、冷蔵庫の中の箱が今日の晩酌になる。
 台所から移動して再びテーブルの前に腰を落ち着けてみると、自然と己の右側を開けていることに気付いた。 一週間を過ごした嶺二の部屋での習慣が、こちらでもあたり前に引き継がれていることが妙に面映ゆい。
 改めて真ん中に陣取って箱を開けてみると、丸いチョコレートに軸がひょんと飛び出していて。嫌な予感がして口に入れてみると、案の定自分には合わない甘さが口の中に広がってくる。だが、せっかくの貰い物だと諦めて酒で一つ目を流し込み、さらに二つ目を手に取る。
 チョコレートとサクランボの甘みに、感じるブランデーの苦味。振るい落したはずの憂鬱が部屋に積もって行く。どうせ甘いもの食べるのなら、と次に脳内に浮かんだくちびるに、憂鬱がさらに積もった気がした。
 深く息を吐いて気をとりなおし、立て掛けておいたベースを手に取る。何をしても上手くいかない時はひたすら手を動かすに限る。というより、上手くいかない時こそ腕が落ちないように反復しておいたほうがいいのだろう。音をツマミに酒を飲む。
 そうして、それが終わったら今日はさっさと寝てしまおう。明日は午後から日付が変わるまでが仕事。お互いよくあるすれ違いの生活が始まっている。仕事があるのはありがたい事なのに、今更そんな事を言い聞かせなければいけないのか。今まで当たり前だった事が、たった一週間、夜から朝の数時間を一緒に過ごしただけで変わってしまったのか。それはそれで不安だと、それまでの自身と嶺二に寄った思考を床に振い落して、改めて自分のみの事として考えてみれば、こういう憂鬱な時間は一人で暮らし初めてから度々あった事だと思い出した。
 自分以外誰もいない家と言うものに不安を感じてもいたのだろう、日々の中で忘れかけていた感覚。それが蘇っただけだ。これは。ここしばらくは憂鬱や物寂しい気持ちはすべて嶺二が食べてしまっていたから。
 一通り指を動かすと、カップに残ったウイスキーを飲み干してさっさと布団の中にもぐりこんだ。こんな時は早く寝てしまおう。例え朝隣に誰も居なくても、その方がいいと瞼を落とす。明日は嶺二に会えるだろうか。そんな疑問がよぎった頭を殴りたくなった。


 鼻腔を擽る匂いに意識を覚醒させる。今日は和食か、と当たり前のように考えてから昨日の自分を思い出して、普段なら寝起きにさっさと動きだせない体が引かれるように起き上がった。何故蘭丸しかいない筈の家で味噌汁の匂いがするのだろうか。
「あ、ランランおはよ。まだ寝てても大丈夫だよ?」
 そうして聞こえるはずのない声に顔を向けると、丁度エプロンを外して畳んだばかりの嶺二が笑顔を向けてこちらに歩いてきた。レコーディングからすぐにこちらに来たのか、昨日別れた時の服のままだ。
「…お前、仕事は」
「今日は夕方から。ランランが朝からだったら今日一日あえなくなっちゃうから、帰る前に寄っちゃった」
 ごめんね、と悪気のない声でぺろりと舌を出すと、布団の横に腰を落ち着けて少しだけ顔を傾けてきた。それを合図ののように手を伸ばし頬に触れ、顔を引き寄せて口付ける。微かに嶺二がいつも昼食後用にと持ち歩いている歯磨き粉の匂いがして、差し入れようとした舌を離した。
「わりい、おれまだ歯磨いてねえわ」
「このくらいならへーき。でも、うれしいね。こういうの」
 吐息が髪にかかる距離でふわりと笑って、嬉しそうに自らの手を重ねてくるのを見て、ああ、そうだなと思う。昨日もそうだったが、好きな奴が幸せそうにしているのを、朝から見れるのは最高に良い気分で。無いと思うだけであんなにも憂鬱だった。毎日部屋にたまるそれを、何でもないように調理して食べてしまう人がいなければ、蘭丸はすぐに腐ってしまう。
「なあ、嶺二」
「んー?」
 少し眠気を伴いながらの返事が嶺二の疲労を物語っていて、早く帰してやらないとなと思う反面、帰したくない、ここにいて欲しいとも思うから。
「おれら、結婚しねえ?」
「……ん…?」

 短絡的だと笑われても、お前にだったら構いやしない。





2014/3/26 作成
2014/5/12 公開